2012年01月22日
明日から春節祭
春節祭
旧暦のお正月、春節。2012年は1月23日が春節です。この春節を祝い、横濱中華街では恒例の春節イベントを行います。
爆竹が豪快に鳴り響き、シンバルや太鼓、銅鑼の音とともに春節を祝う中国獅子や龍が舞う華やかな中華街。期間中は歌や舞踊の舞台、中国伝統芸能の演技などもあり、お祭り気分いっぱいです。

横浜中華街 HP

神戸・南京町 HP
横浜中華街(よこはまちゅうかがい)は神奈川県横浜市中区山下町一帯に所在するチャイナタウン(中華街)。以前は唐人町や南京町と呼ばれていた。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、各地に分散している。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には、当地の出身者が多い。所在地である中区の中国人人口は6000人を超える。これは同区で登録されている外国人の約4割にあたる。
約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。日本では、神戸南京町や長崎新地中華街とともに三大中華街とされる。
横浜中華街
横浜市中区山下町一帯に所在するチャイナタウン。約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっています。
日本の中華街は、他の国々のチャイナタウンが中国人向けの中国人街であるのに対し、来街者の95%が中国人ではなく、観光地となっています。
1859(安政6)年、横浜が開港すると外国人居留地が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住しました。
当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かったそうです。
その後、横浜と香港・上海間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角、旧横浜新田を造成した地域に徐々に集まり住み、関帝廟・中華会館・中華学校・劇場などを築いていきました。これが横浜中華街の原型です。
この頃の商店は日用雑貨店・衣料品店・食料品店などの店が大半で、中華料理店は多くなかったそうです。明治初年には横浜の華僑人口は約1000人となりました。
1894(明治27)年日清戦争が勃発すると、横浜華僑もその三分の一が帰国しましたが、戦争が終わり、1899(明治32)年に条約改正により居留地が廃止されると、外国人は職業制限を受けたものの居留地外にも住むことを許されました。
再び中華街に活気がもどると、中国の革命家孫文の来日に影響されて、華僑の学校が創設されました。
ただしこの時期は、特に中華街というわけではなく単に外国人街であり、1921(大正10)年の「横浜市商工案内」によれば、この地区の総店舗数263軒中、日本人店149軒、欧米人店79軒に対して中国人店35軒であり、そのうち中華料理店はわずか5軒であったそうです。
一方1910(明治43)年の「名誉鑑」では有名な広東料理店として5軒を挙げていて、1900年以降一挙に中華料理店が増えていったそうです。華僑人口も20世紀初頭には5000人あまりに達しました。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災でこの地区は大打撃を受けて瓦礫と化しました。欧米人の多くが帰国した上、横浜華僑も一時は200人あまりに激減してしまったそうです。
しかし徐々に人々が戻りはじめ、料理店・雑貨店・理髪店が立ち並んでいきました。
そして昭和の初めには華僑人口は3000人あまりに回復し、賑わいを見せました。
1932(昭和7)年の「横浜市史稿・風俗偏」では南京町で先ず目に入るのは料理店であるとし、何々楼と称する料理店が20軒あまりに達したとされています。1934(昭和9)年7月23日の「横浜貿易新報」では「南京街の支那料理」を横浜自慢として紹介されています。
しかし、1937(昭和12)年7月7日に勃発した日中戦争で多くの華僑が帰国し、閉店した店も多いそうです。
1945(昭和20)年5月29日、横浜大空襲で中華街は再び大打撃を受けました。
終戦とともに復興が始まり、1946(昭和21)年に関帝廟と横浜中華学校が再建されました。
戦後の復興期に横浜港は賑わい、香港との往来も復活しました。
戦勝国である中国からの物資に恵まれ、1946(昭和21)年2月20日の「神奈川新聞」によると中華街で営業していた飲食店は96軒あったそうです。
また中区は関内を中心に三分の一が接収されていたので、進駐軍や船員相手の外国人バーが多くありました。朝鮮戦争終了後、横浜の接収が解除されるにしたがい外国人バーは姿を消していきました。
1955(昭和30)年には中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、牌楼(門)の上「中華街」と書かれたことで、それまでは華僑には「唐人街」、日本人には「南京街」と呼ばれていたこの街が次第に「中華街」と呼ばれるようになりました。
1972年(昭和47年)に日中国交正常化が実現した年に高橋柢祐氏を初代理事長に迎えた街づくりへの志を同じくする者が集う横浜中華街発展会協同組合が発足した。ハード、ソフト面での整備が進められたことで日本人が多数来場するようになり、観光地として発展していった。牌楼門は1989年(平成元年)に建替えられ「親仁善隣」を掲げる現在の「善隣門」となりました。
~
2004年(平成16年)2月1日に横浜高速鉄道みなとみらい21線が開業し、終着駅として元町・中華街駅が設置された。駅の名称に「中華街」が入り、東京の渋谷駅から東急東横線の電車が直通運転されることで、中華街のアクセス状況や知名度はさらに向上し、同年、8月1日より、電子マネー「Edy」を利用できるようにし、利便性の向上をはりました。
2006年(平成18年)3月17日に、開廟した横浜媽祖廟は開港から150周年を迎える横浜の新しい観光スポットとして横浜中華街に誕生した、台湾最初の官建の台南市大天后宮より分霊された。媽祖は140年前に清国領事館と関帝廟に祀られていたとの記述が残されており、横浜中華街では古くから信仰を得ています。
2007年(平成19年)から2008年(平成20年)にかけては中国製品の安全性問題、中国産食品の安全性が世界的に大きな問題となり、中華街でも風評被害が原因で売り上げが減少しました。
2009年(平成21年)7月1日より公道を利用した不法なビラ配り、栗販売、露店を改善するため、街づくり団体連合協議会が定めた横浜中華街「街づくり協定」のルールに基づいたパトロールが横浜中華街発展会協同組合によって実施された。安心して来街者が楽しめる環境作りに取り組んでいます。
Wikipedia

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旧暦のお正月、春節。2012年は1月23日が春節です。この春節を祝い、横濱中華街では恒例の春節イベントを行います。
爆竹が豪快に鳴り響き、シンバルや太鼓、銅鑼の音とともに春節を祝う中国獅子や龍が舞う華やかな中華街。期間中は歌や舞踊の舞台、中国伝統芸能の演技などもあり、お祭り気分いっぱいです。

横浜中華街 HP

神戸・南京町 HP
横浜中華街(よこはまちゅうかがい)は神奈川県横浜市中区山下町一帯に所在するチャイナタウン(中華街)。以前は唐人町や南京町と呼ばれていた。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、各地に分散している。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には、当地の出身者が多い。所在地である中区の中国人人口は6000人を超える。これは同区で登録されている外国人の約4割にあたる。
約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。日本では、神戸南京町や長崎新地中華街とともに三大中華街とされる。
横浜中華街
横浜市中区山下町一帯に所在するチャイナタウン。約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっています。
日本の中華街は、他の国々のチャイナタウンが中国人向けの中国人街であるのに対し、来街者の95%が中国人ではなく、観光地となっています。
1859(安政6)年、横浜が開港すると外国人居留地が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住しました。
当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かったそうです。
その後、横浜と香港・上海間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角、旧横浜新田を造成した地域に徐々に集まり住み、関帝廟・中華会館・中華学校・劇場などを築いていきました。これが横浜中華街の原型です。
この頃の商店は日用雑貨店・衣料品店・食料品店などの店が大半で、中華料理店は多くなかったそうです。明治初年には横浜の華僑人口は約1000人となりました。
1894(明治27)年日清戦争が勃発すると、横浜華僑もその三分の一が帰国しましたが、戦争が終わり、1899(明治32)年に条約改正により居留地が廃止されると、外国人は職業制限を受けたものの居留地外にも住むことを許されました。
再び中華街に活気がもどると、中国の革命家孫文の来日に影響されて、華僑の学校が創設されました。
ただしこの時期は、特に中華街というわけではなく単に外国人街であり、1921(大正10)年の「横浜市商工案内」によれば、この地区の総店舗数263軒中、日本人店149軒、欧米人店79軒に対して中国人店35軒であり、そのうち中華料理店はわずか5軒であったそうです。
一方1910(明治43)年の「名誉鑑」では有名な広東料理店として5軒を挙げていて、1900年以降一挙に中華料理店が増えていったそうです。華僑人口も20世紀初頭には5000人あまりに達しました。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災でこの地区は大打撃を受けて瓦礫と化しました。欧米人の多くが帰国した上、横浜華僑も一時は200人あまりに激減してしまったそうです。
しかし徐々に人々が戻りはじめ、料理店・雑貨店・理髪店が立ち並んでいきました。
そして昭和の初めには華僑人口は3000人あまりに回復し、賑わいを見せました。
1932(昭和7)年の「横浜市史稿・風俗偏」では南京町で先ず目に入るのは料理店であるとし、何々楼と称する料理店が20軒あまりに達したとされています。1934(昭和9)年7月23日の「横浜貿易新報」では「南京街の支那料理」を横浜自慢として紹介されています。
しかし、1937(昭和12)年7月7日に勃発した日中戦争で多くの華僑が帰国し、閉店した店も多いそうです。
1945(昭和20)年5月29日、横浜大空襲で中華街は再び大打撃を受けました。
終戦とともに復興が始まり、1946(昭和21)年に関帝廟と横浜中華学校が再建されました。
戦後の復興期に横浜港は賑わい、香港との往来も復活しました。
戦勝国である中国からの物資に恵まれ、1946(昭和21)年2月20日の「神奈川新聞」によると中華街で営業していた飲食店は96軒あったそうです。
また中区は関内を中心に三分の一が接収されていたので、進駐軍や船員相手の外国人バーが多くありました。朝鮮戦争終了後、横浜の接収が解除されるにしたがい外国人バーは姿を消していきました。
1955(昭和30)年には中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、牌楼(門)の上「中華街」と書かれたことで、それまでは華僑には「唐人街」、日本人には「南京街」と呼ばれていたこの街が次第に「中華街」と呼ばれるようになりました。
1972年(昭和47年)に日中国交正常化が実現した年に高橋柢祐氏を初代理事長に迎えた街づくりへの志を同じくする者が集う横浜中華街発展会協同組合が発足した。ハード、ソフト面での整備が進められたことで日本人が多数来場するようになり、観光地として発展していった。牌楼門は1989年(平成元年)に建替えられ「親仁善隣」を掲げる現在の「善隣門」となりました。
~
2004年(平成16年)2月1日に横浜高速鉄道みなとみらい21線が開業し、終着駅として元町・中華街駅が設置された。駅の名称に「中華街」が入り、東京の渋谷駅から東急東横線の電車が直通運転されることで、中華街のアクセス状況や知名度はさらに向上し、同年、8月1日より、電子マネー「Edy」を利用できるようにし、利便性の向上をはりました。
2006年(平成18年)3月17日に、開廟した横浜媽祖廟は開港から150周年を迎える横浜の新しい観光スポットとして横浜中華街に誕生した、台湾最初の官建の台南市大天后宮より分霊された。媽祖は140年前に清国領事館と関帝廟に祀られていたとの記述が残されており、横浜中華街では古くから信仰を得ています。
2007年(平成19年)から2008年(平成20年)にかけては中国製品の安全性問題、中国産食品の安全性が世界的に大きな問題となり、中華街でも風評被害が原因で売り上げが減少しました。
2009年(平成21年)7月1日より公道を利用した不法なビラ配り、栗販売、露店を改善するため、街づくり団体連合協議会が定めた横浜中華街「街づくり協定」のルールに基づいたパトロールが横浜中華街発展会協同組合によって実施された。安心して来街者が楽しめる環境作りに取り組んでいます。
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Posted by 正華工場直売店長 at 08:57│Comments(0)
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